その人を表すキーワードを「タグ」と呼んだりするが、林田絵美の場合は「公認会計士」「発達障がい(ADHD)」「ベンチャー経営」などがそれに当たるのだろうか。
特に昨今は、「発達障がい(ADHD)」のタグが目立つが、話を聞いて見えてきたのは、自分の特性と向き合い、自分の目指す道に向かって決断を繰り返してきた、ひとりのビジネスパーソンだということ。自分の居場所を手にするために必要だった「公認会計士」という資格と、取得難易度が高いだけに資格にしばられがちで、「公認会計士こそ身動きが取れなくなる職業かもしれない」という本音について聞いた。
林田 絵美(はやしだ えみ)
株式会社キズキ 執行役員/公認会計士
1992年、埼玉県出身。2015年、早稲田大学政治経済学部卒業。2013年、早稲田大学在学中に公認会計士論文式試験に合格。2015年より、PwCあらた有限責任監査法人へ入社。金融部門・財務報告アドバイザリー部へ配属される。2018年に同監査法人を退社後、株式会社キズキへ入社。新事業「キズキビジネスカレッジ」の事業責任者を務めたのち、現在の役割は新規事業の事業責任者。
- Twitter @lin_douob
どこにいても生きていける資格、公認会計士。
「世界中どこにいても、自分の力で生きていけるようにと考えた時、会計分野だと思ったんです」と、林田は公認会計士を目指した理由を話した。そして「中学生の頃からずっと感じていた“生きづらさ”に対して、仕事にできないかとも考えていました」と続けた。
ただし、“生きづらさ”については、「シングル家庭でもなく、衣食住に困っていないどころか、私立高校に通わせてもらっている自分は、客観的に見れば恵まれているのだろう」と分かっていたからこそ、分かってもらいにくい、“見えない生きづらさ”を、何とかしたいという気持ちは密かに抱え続けていた。
「コツコツ勉強することは向いている」という言葉通り、公認会計士試験の論文試験には、大学3年生時に合格。大学卒業後に就職したPwCあらた有限責任監査法人では、アドバイザリー部門への配属を希望した。
「会計士になって監査法人に入社すると、はじめは監査部門に配属されるのが一般的ですが、アドバイザリー部門であれば、監査だけでなく公認会計士のビジネスへの関わり方を広く経験できると思いました。将来“生きづらさ”を仕事にする時に、公認会計士の自分にできることを知り、経験することに、価値があると思ったんです」
“生きづらさ”の理由のひとつは、社会人1年目の終わり頃に名前がついた。激務がたたって救急車で運ばれた後にさまざまな検査を受けた結果、ADHDだという診断を受けたのだ。
「とにかく忘れ物がひどかったり、集中したあとに眠気が襲ってきたりと、子どもの頃から注意されても直らないことだらけだったけれど、ようやく腑に落ちた気がしました」と振り返った。
尊敬する上司の下で、東南アジア現地での会計基準に関わるアドバイザリーや、組織再編のPMOなどに携わる忙しい日々の中で、「“生きづらさ”を仕事にするには?!」というだけでなく、「発達障がいという領域でできることは?!」という関心が加わることになった。
林田は、監査法人に勤める以外にボランティアとして、NPO団体にも関わっていた。途上国でソーシャルビジネスを行う会社の経営支援を行う、ARUN(アルン)Seedだ。
「社会課題をビジネスにすることを学ばせてもらっていました。正直、会計士として監査法人に勤めながらボランティアを続けるというパターンもあるかなと思ったこともありますが、3年ほどこのスタイルでやってきて、限界があるなと思い始めたんです。片手間でやれることじゃない、本業にすることを目指してみよう。」
「キズキ」との縁は、1通のダイレクトメール。
最初は、NPOや社会課題解決型のビジネスを展開している企業を専門とする会計士として、独立開業することも視野に入れていたが、ある時、キズキグループ代表の安田祐輔氏のSNSが目に止まった。
「『何度でもやり直せる社会を作る』をビジョンとしてキズキを立ち上げた安田は、『うつ病や障がいを抱えている人のためのポータルサイトを作りたい』と投稿していました。ボランティア活動を通じて、安田には1度だけ会ったことがある程度の知り合いでしたが、なぜかダイレクトメールを送ってみようと思ったんです」と話した。
林田:「発達障がいや生きづらさを抱える人たちを支援する、会計士予備校を作りたい。」
安田氏:「今は不登校や学校を中退した子どもたちが学び直すための塾を運営しているけれど、今後は、うつや発達障がいの大人が、再びキャリアを築き始めるためのビジネススクールを作りたい。英語やプログラミング、会計もあればいいかもしれない。」
何度もそんなメッセージのやり取りをしたうえで、「お茶を飲みながら、ビジネススクールの構想について話し合いました。そのうちに、会計士として独立開業する道は違うなと思うようになっていったんです。自分がNPOの会計処理を担当したところで、“生きづらさ”の直接的な解決にはならないから。」
3回目を迎えた安田氏との面談で、いよいよ「一緒にやりましょうか」という展開になるものの、ビジネススクールはあくまでも安田の頭の中で構想していたことであり、安田自身が事業展開をキズキの役員陣に話すことから始める必要があったのだという。
「安田にダイレクトメールを送ってから、キズキでやろうと決まるまで、半年以上はかかりましたね。でもその間に、生きづらさや発達障がいを抱えている人に対して何かアクションを起こそうとするなら、もう自分でやるしかないと気づいたので、覚悟ができました。」
例えば、PwCあらた有限責任監査法人という大きな看板を失うことや、会計士としての仕事を離れること、事業会社への転職、収入は恐らく下がることになる。不安は全くなかったのだろうか。
「自分が取り組みたい分野で転職するなら、収入を下げる選択肢も頭にありました。じゃあ、いくらあれば生活できるだろうかとは、以前から考えていました」としたうえで、こう続けた。
「新卒で監査法人に入社すると、世の中の水準よりも高い給与をもらうんです。さらには、忙しさもあって同業の人としか話をしないとなると、業界の給与水準が高いということを忘れて、その給与が自分の実力だと勘違いしてしまう。
私の場合は社会人1年目からNPOでボランティアをしていたので、色んな人と出会って実力と給与がイコールではないことを知っていましたし、自分は実力よりも給与をもらいすぎだという感覚を持てたことは、有り難かったです。給与水準を落としたくないからと選択肢を狭めてしまうのは、長期的に見れば大きな損失でもったい無いですよね。」
余計なことは考えない。迷わず自分の道を行く。
さらに、目標に向かって背中を押されたという、ひとつの出会いについても明かしてくれた。
「監査法人から次への一歩が踏み出せない時に、いろんな人に話を聞いていました。その中で、会計士のキャリアに詳しい転職エージェントの方に、『五常・アンド・カンパニー』を紹介されたんです。
五常はマイクロファイナンスを通じてすべての人に金融アクセスを届けることを目指す、当時設立3年目の、まさにスタートアップ企業でした。結局エントリーすることはなかったのですが、私は実は大学の卒業論文がマイクロファイナンスで、五常のやっていることはピッタリ。しかも、五常のことを調べるうちに、高校の同級生が経営陣として活躍していることを知って、すぐに連絡を取りました。」
勉強が苦手で野球少年だった彼は、大学卒業後は大企業に就職したはずだった。
「看板とか給与とか未経験だとか、余計なことを考えずに、迷わず自分のやりたい道に進んでいる姿を見て、そうだよなぁ、それでいいよなぁと思えた。英語やファイナンスができなかったとしても、努力をして今の場所で仕事をしている彼に、刺激を受けました。」
キズキに転職して4年になるが、今の自分について「監査法人に勤めていたときよりも、ずっと数字が読めるようになりました」と林田は笑った。
「『キズキビジネスカレッジ』というスクールを立ち上げて、事業責任者をしているので、集客も採用も自分たちでやるし、利益を出してそこからスタッフへ給与を支払うわけです。数字を作る裏側を実感することで、ただの記号ではないリアルなものとして、数字を見られるようになりました。」
そして、これからについてはこう語った。「新しいデジタルサービスを立ち上げているところです。この3年間で、うつや発達障がいを抱える方向けのサービスを展開してきましたが、これは行政の支援を受けているので、無職で収入がなかったり障がいの診断を受けていたりなど、一定の要件を満たした人だけが利用できるものでした。新しいチャレンジでは、その条件からは漏れてしまう人を支援したいと思っています。発達障がいのグレーゾーンに居る方たちのキャリア支援をしたいんです。」
生きづらさを仕事にしたい、公認会計士になれば世界中どこでも自分で生きていけると考えた林田だが、「公認会計士として一人前にならなければ」という固定観念を手放し、心の声に従った先で、自分で自分の居場所を見つけたようだった。
取材・執筆:伊勢真穂
撮影:山本マオ
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