会計士は10年で何ができるだろうか?
これからキャリアを積んでいく若手会計士のために、ひとりの(元)会計士にインタビューをしてみた。
株式会社ティーンスピリット代表取締役の宮地 俊充(みやち としみつ)氏だ。
公認会計士ナビの初期の読者や熱心な読者、もしくは、スタートアップ業界の関係者であれば彼の名前に聞き覚えがあるかもしれない。
2014年には、リリース間もない頃の公認会計士ナビのインタビューや第1回 公認会計士ナビonLive!!にも登場。会計士起業家として、オンライン英会話サービスBest Teacher(ベストティーチャー)の創業者として注目を集めたその人物だ。
宮地氏は、学生時代に脚本家や放送作家として活動するもその道を断念。
その後、公認会計士試験に合格し、監査法人、M&Aアドバイザリー、スタートアップのCFOを経て、オンライン英会話サービス「ベストティーチャー」を起ち上げた異色の経歴を持つ。
そんな宮地氏だが、2017年にベストティーチャーの代表を退任、2018年に入り2度目の起業をし、株式会社ティーンスピリットを立ち上げた。
ティーンスピリットでは、ダンスボーカルグループ等をプロデュースし、「エンターテイメント×IT」での事業展開を構想する。
もはや会計とは大きく異なる業界にて事業を営む彼だが、「会計士から離れるほど会計士に近づいていた10年だった」と語る。
本記事では、宮地俊充氏の会計試験合格から今日までの10年間をお届けする。
宮地 俊充(みやち としみつ)
株式会社ティーンスピリット 代表取締役
1981年静岡県生まれ。青山学院大学法学部卒。
大学時代から作家活動を開始し、電波少年的放送局企画部 放送作家トキワ荘などに出演。大学卒業後、2007年、公認会計士試験合格。
あらた監査法人(現・PwCあらた有限責任監査法人)、独立系M&AファームのGCAサヴィアン、EC系ITベンチャー・ハングリードのCFOを経て、2011年に英語4技能対策オンライン英会話スクールを運営する株式会社ベストティーチャーを創業。ベネッセ、Z会、旺文社、ジャパンタイムズなど教育系大手と提携し、革新的なオンライン学習サービスを開発。2016年夏にSAPIX YOZEMI GROUPに参画。
2017年末にベストティーチャー退任後、2回目の起業となる株式会社ティーンスピリットを創業。作詞・作曲・編曲をしながら、アーティストのコンセプトメイク、プロモーション企画まで担当。
<略歴>
1981年 静岡県浜松市生まれ
2000年 青山学院大学法学部 入学(ほとんど学校へ行かず脚本家や放送作家として活動)
2005年 大学卒業、会計士試験勉強のため専門学校のTACへ通学
2007年 公認会計士試験合格
2007年 PwCあらた監査法人 入所(IFRSのコンサル、監査など)
2009年 GCAサヴィアン 入社(M&Aアドバイザリー、事業再生など)
2011年 ハングリード 取締役CFO 就任(ECショップ支援事業)
2011年 ベストティーチャー 代表取締役社長 就任(最初の起業、テクノロジー×教育事業)
2016年 SAPIX YOZEMI GROUPにベストティーチャーの株式を売却
2017年 ベストティーチャー 代表退任
2018年 ティーンスピリット 代表取締役社長(2回目の起業、テクノロジー×エンタメ事業)
<参考記事>
社会人としての遅れを取り戻したかった会計士1年目
2007年 放送作家を断念、会計士試験に合格
宮地が会計士試験に合格したのは2007年11月のことだ。
大学卒業後は放送作家を目指し、一時は人気テレビ番組の作家育成企画にも出演もしたが、わずかな人間しか食べていくことのできない業界の厳しさに、放送作家への道を断念する。
その後、会計士試験に受かったものの、出遅れた社会人としてのスタートに焦りがあった。
会計士試験に合格したのは26歳でした。ストレートで大学を卒業していれば既に4年のキャリアがある年齢。社会人としての遅れを早く取り戻さなければということばかり考えていました。
当時は会計士試験の合格者が3,000名を超え、空前の好景気で採用も売り手市場、監査法人の初任給も高く、待遇も手厚く驚いたという。
宮地は「あらた監査法人」(現・PwCあらた有限責任監査法人)への就職を選択。アドバイザリーファームからの内定も獲得したが、一緒に勉強した同期も多い監査法人を選んだ。
一方で、配属部門では周囲との違いを出したいと考え、監査ではなく会計アドバイザリーに従事する「財務報告アドバイザリー」の部門を選んだ。
多くの会計士が最初の仕事として監査を選び、インチャージ(現場主任)を目指す中で、そうでない選択をした理由は、「当時はIFRSの適用が近づいており、これから来るものに乗りたいと思ったから」だという。
2007年12月、宮地のあらた監査法人での会計士キャリアがスタートした。
2008年 会計士1年目、初めての転職活動は惨敗
あらた監査法人での宮地は仕事に手応えを感じていた。
IFRSという新分野を選んだことにより、新人でも努力次第で先輩や上司と同等、またはそれ以上の知識を身につけることができたからだ。
監査部門を選んでいれば多くの会計士と同じく監査のスタッフワークに従事していたはず。同期と同じ会社にいても上司やプロジェクト次第で違う能力になってしまう。社会人のキャリアは運も大きいんだなと感じていました。
そんな中、宮地は入社1年を経たずして転職を検討し始める。
当時の宮地は、サイバーエージェント創業者である藤田晋氏の書籍の影響から、ベンチャーへの興味を強く持っていた。
監査法人で3年程度の経験を積んだら、投資銀行や戦略コンサルに転職、そこからベンチャーのCFOへ…漠然とそんなキャリアを描いていた。
監査法人は、待遇面でも労働環境でも優遇されていて、とても良い環境でした。ただ、当時の私は「社会人は最初に入る会社で働き方や姿勢が決まる」と思っていたので、もっと厳しい環境で働くべきでは…と感じていました。
そこで、戦略やファイナンス系ファームにチャレンジしようと、転職活動を行った宮地だが、そこは会計士としても社会人としても1年未満のキャリアである。面接ではコテンパンに叩きのめされ、転職市場の厳しさや自分の価値のなさを痛感することとなる。
2009年 監査法人を1年8ヶ月で辞めてM&Aの世界へ
転職活動での惨敗から数ヶ月、会計士2年目を迎えた宮地は、やはり転職への気持ちを捨てきれず、再び転職エージェントの門を叩く。
その結果、今回は2社からの内定を獲得する。
1年目の転職活動で手酷くやられていたので、内定が獲得できたことに驚きました。やればできるんだ、自分には無理だという思い込みは良くないと身をもって学んだ経験でした。
熟考の結果、宮地は、独立系M&Aアドバイザリーファームとして名を馳せるGCAサヴィアン(現 GCA)を選択する。
宮地は、当時の自分を「無事に内定は得たものの、退職申請の方法も入社日の迎え方もわからず、社会人としては明らかに未熟だった」と振り返る。
しかし、宮地は、そんな未熟な自分がGCAに採用してもらえた大きな理由のひとつに、当時は珍しいIFRSの経験を積んでいた点を挙げる。これにより宮地は、人と違うスキルを身につけることがいかに重要かを学ぶこととなった。
あらた監査法人入所から1年8ヶ月。宮地は監査法人を去り、M&Aの世界へと活躍の場を移すこととなる。
会計士3年目、スタートアップのCFOへ、そして、起業へのチャレンジ
2010年 スタートアップに憧れCFOに
投資銀行出身者や海外MBAホルダーなど、トップエリートかつ仕事に厳しいメンバーたちに囲まれたGCAサヴィアンでの仕事は、宮地にとって新鮮であった。
当時は働き方改革という概念もまだない時代。M&A業界の猛者たちが集う職場は、深夜までの仕事が連日続くなど過酷な環境でもあったが、「M&Aには、戦略、財務、人事などいろいろな要素があり、それらすべてに触れられ経営に携わる仕事をしている実感があった」と振り返る。
そういった環境の中、宮地はさらにわずかでもスキルを高めようと、入社1年に差し掛かる頃から、起業イベントに参加するなど自己研鑽のために活動の場を広げつつあった。
そんな中、1本の映画が宮地の人生を変えた。
Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグをモデルとし、当時、世界的にヒットした映画「ソーシャル・ネットワーク」だ。
ソーシャルネットワークに興奮した宮地は、またたく間にITベンチャー業界の虜となる。
リーマンショック後の不景気の中、GREEやDeNAといったベンチャーが急成長により大きく注目されていた当時。それまで漠然とベンチャーのCFOになりたいと考えていた宮地だったが、ITベンチャーについて調べるにつれ「すぐこの世界に飛び込んでも良いのでは」と感じ始める。
思い立ったら行動せざるを得ない宮地、ベンチャー業界紙の掲載企業やビジネスコンテストの優勝企業などに、ツテもないまま片っ端から連絡し数十社のベンチャーに話を聞きに行った。
そんな中、EC系ツールを提供するベンチャー「ハングリード」からCFO職のオファーを受け、転職を決断する。
退職時にGCAサヴィアンの全職員向けに送ったフェアウェルメールでは「これからITベンチャーでCFOにチャレンジします」と想いを熱く語った宮地。しかし、同僚たちからの反応は「なぜそんな無名な会社に転職するの?」というものだった。
今でこそ投資銀行や戦略コンサルからスタートアップへと転職する事例も多くなっているが、当時の金融エリートたちにとってベンチャーへの転職はメジャーではなく、宮地の選択は明らかに異端であった。
ものすごい熱い想いを込めて伝えたのに、周囲からはそんな反応で「あれ?」という感じで拍子抜けしました。実は、その時に初めて自分が変わり者だと気づいたんです(笑)
会計士キャリアとの別れ
また、この年、宮地の人生を決定づけるもうひとつの出来事があった。
公認会計士試験の「修了考査」だ。
公認会計士試験に合格し、会計やM&Aのアドバイザリー経験を積んだ宮地。この修了考査に合格すれば晴れて公認会計士登録を行い「公認会計士」と名乗ることができる。
しかし、奇しくもこの修了考査に落ちることとなる。
試験には自信のあった宮地だが、試験時間を勘違いしたことにより問題を解ききれずに試験を終えてしまう。
結果は当然の不合格。
来年またチャレンジすれば合格する自信もあった。しかし、試験を意識しながらこれからの1年を過ごしたくはない。
そのときに、これは「会計士はあきらめろ」という神様からの啓示なのかなって思ったんです。私の中ではGCAに転職したときに会計士資格は捨てたつもりで、名乗ってはいけないくらいの気持ちではあったのですが、ここで本当の意味で吹っ切れました。
2011年 転職先で社長との衝突、初めての起業
念願のITベンチャーに転職した宮地。ハングリードでの最初のミッションはベンチャーキャピタルからの資金調達だった。
入社直後から進めた交渉が最終段階で破談となるなど苦労はしつつも、宮地は入社半年で資金調達に成功する。
CFOとしてまずは最初の実績を出した宮地。だが、時期を同じくして、社長との関係にズレが生じてくる。
宮地は振り返る。
あの頃の自分には、重軟性に欠け、あるべき論に固執する部分がありました。
FacebookやDeNA、GREEにすごく影響を受けていて「ベンチャーは資金調達して急成長すべき、それを目指すべき」と思い込んでいました。
社長に対してもそう言ったあるべき論ばかり主張して、成長を過度に求めていました。会社の現状や現場実務に関する視点がごっそり抜けていましたね。
そして、契機となったのは社長との喧嘩だった。
ある日、些細なことから口論となり、社長からの「ウチがIPOした後も続けてくれるよね?」のひと言に「起業したい気持ちもあるんです」と思わず返してしまう。
「これは軽率な発言でした」と振り返る宮地。
事実、当時、宮地には既に起業への思いがあり、後に起ち上げるオンライン英語学習サービス「ベストティーチャー」の原型となるアイデアを思いつき、週末を使って形にしてみようと動き始めようとしていたところだった。
売り言葉に買い言葉、勢いでの発言ではあったが、社長からは「本当に起業したいなら会社を辞めて、今すぐやるべき」との言葉をかけられ、退職を決意する。
わずか8ヶ月の在籍期間、信頼して投資してくれたベンチャーキャピタルや他の従業員にも迷惑をかける退職となったが、結果として社長から背中を押してもらう形でのチャレンジとなった。
そして、2011年11月、宮地は初めての起業となる「株式会社ベストティーチャー」を設立。12月にはサイバーエージェント・ベンチャーズからシード資金の調達を行い、本格的に起業家としてのキャリアがスタートする。
会計士から起業家へ、初めてのHARD THINGS
2012~2014年 起業、資金調達、組織崩壊…苦難の時代
宮地が考えた「ベストティーチャー」は、オンラインでの英会話レッスンに、ライティングレッスンを組み合わせた英会話学習サービスだ。
当時、Skypeを使った低価格のオンライン英会話スクールが台頭し始めていた中、ベストティーチャーは、ビジネス英会話など高い英語力を身に着けたい層をターゲットとしたサービスであった。
ベストティーチャーの学習メソッドは、宮地自身が英語の勉強を行った際に効率が良いと感じた手法であり「いろいろなビジネスを考えた中で、初めて“これだ!”と思えたアイデア」であった。
当時のベンチャー業界は、リーマンショックや東日本大震災後の冬の時代のさなかにありながらも、「ベンチャー」に代わって「スタートアップ」という単語が使われ始め、今まさに何かが起ころうかと感じさせる時代だった。
シードラウンドの資金で、ベストティーチャーのプロトタイプを完成させた宮地は、それを手に、シリーズAラウンドとして、GMOとSMBC系列のベンチャーキャピタルから5,000万円を調達し、起業家としての1年目を終える。
しかし、2年目以降、宮地にかつてない苦難の時代が訪れる。
足りない経営者としての実力
シリーズAラウンドで5,000万円の資金を手にした宮地だが、資金調達を成功させることと組織運営を成功させることは別であることを痛感する。
メンバーを集めるものの、定着しない。
採用したメンバーが辞めてしまう。
当然のことながら組織もまとまらない。
「最初の2~3年は本当に人で苦労しました」宮地は振り返る。
宮地が目指したのは、目標に向かってがむしゃらに突き進む組織。オフィスに寝袋を持ち込んでみんなで昼夜問わず働く…そんなスタートアップの姿に憧れていた。それをメンバーにも求めた。
しかし、メンバーたちの反応は違った。
「宮地さんが思うベンチャー像についていける人はいない」
痛烈な言葉が投げかけられた。
マネジメント経験もなくいきなり社長になったので、「人」のことをまったくわかっていませんでした。働く人の意識や考え方は、スタッフ、管理職、役員、社長それぞれの立ち位置で違います。そこを飛ばしていきなり社長になったので、そういったこともわかっていなかったんです。
また、組織がうまく行かない焦りから、思考にも柔軟性を欠いていたと振り返る。
ユーザー数は増えており、ベストティーチャーを褒めてくれる人もいました。一方で、赤字のままで劇的には成長できていない。
実は、一部の人には「サービスがわかりづらい」と言われていたのですが、それを真摯に受け止めていませんでした。もっとシンプルでわかりやすいサービスにする必要があることに気づけていなかったんです。
組織や事業がうまくいかないことから、次第に株主であるベンチャーキャピタルと衝突することも増えていった。一時は退任をほのめかされるまでの状況になったが、株式の過半数を自身で握っていたことから、何とか退任は免れる。
起業3年目の復活
極限の精神状態であった宮地だが、不思議とベストティーチャーのサービスを信じる心だけは折れなかったと言う。
2014年、メンバーの大部分が退職したことを契機に、マネジメントスタイルを変え、価値観を共有できる新たなメンバーを採用し、徐々に組織がスムーズに動き出した。
また、サービスのクオリティアップと値上げを行い、より高付加価値な路線へと転換したことによって月商を2倍へと拡大。2014年9月に初の単月黒字化を実現する。
EXIT、ベストティーチャーとの別れ、新たな旅立ち
2015~2016年 黒字化からの安定期へ
黒字化したことによって株主を含めた周囲からの評価も大きく変わり、事業や組織の安定とともに宮地の精神状態も平穏を取り戻す。
宮地は「起業は当てるまでは辛いが、回る仕組みを作ることができればリスクが少ない生き方だなと思った」と当時を振り返る。
また、ベストティーチャーが安定成長を迎えた頃、外国語教育の分野で「4技能」という言葉が注目され始める。
「4技能」とは、外国語学習における「聞く」「話す」「読む」「書く」の4つの力を指す言葉だ。
4技能は宮地が以前よりベストティーチャーのメソッドに近いと注目していたコンセプトであり、文科省による学習指導要領もこの4技能を強く意識したものへと改革される流れとなりつつあった。
そこで、宮地は、中高生の英語学習にも切り込むタイミングが来たと、塾や予備校との提携を検討し始める。
この動きが後のベストティーチャーの株式の売却につながるのだが、当初、宮地は売却まで考えていたわけではなかったという。
宮地の中には「英語4技能によって日本の英語教育が変わっていく中で、ベストティーチャーでその実現を後押ししたい」との理想や実現したい世界観があった。
業務提携の話を進めていくと、当然のことながら出資の話にもなった。
しかし、特定の企業の出資を受け今後の展開の幅を限定したくないと、資本提携には前向きにはなれなかった。
とは言え、比較対象とされる上場のオンライン英会話サービス企業の時価総額も頭打ちであり、VCから追加調達ができない状況にあった。
「自分の理想の世界の実現には何がベストなのか…」
中途半端な資金調達や資本提携では理想の世界は実現できない。組むならインフラを持った教育大手と本気で…
次第に100%出資で本気のタッグを組めるパートナー探しへと気持ちは傾いていった。
SAPIX YOZEMI GROUPへのEXIT
2016年8月、宮地は、SAPIX YOZEMI GROUPにベストティーチャーの株式を100%売却する。大手予備校「代ゼミ」を運営する予備校・塾業界の大手だ。
株式は売却したものの宮地は代表として残り、引き続きベストティーチャーの経営に携わった。
大企業グループの傘下となり、気にすべきポイントは増えたが、使える資金やインフラも増え、宮地にとっては大企業のすべてが新鮮だった。
楽しく働けていましたし、株式を売却して得た資金でエンジェル投資も始めて、いろいろな会社や業界に深く関わるようになり、勉強にもなりました。その時は次のビジネスやキャリアのことは考えてなくて、やりながら考えていけば良いと思っていました。
自分の原点に帰ろう、エンターテイメント業界への回帰
ベストティーチャーがSAPIX YOZEMI GROUPに加わって約1年後、宮地の中でふつふつと音楽をやりたい気持ちが湧いてきた。
大学時代、放送作家や脚本家の仕事をしながら、学生時代から音楽漬けだった宮地。社会人向けの音楽学校に通い、楽器や音楽理論の勉強を再開する。
その時は音楽をビジネスにしたいとは思ってなくて、趣味や興味の延長だったんです。ただ、そうやって音楽をやっている中で、自分にとって音楽の存在はやはり大きいことに気づいたんです。
次にやりたいことが見つかったかもしれない…
2017年末、宮地はベストティーチャーの代表を退任する。
新たな夢を乗せて、ティーンスピリット創業
2018年、宮地は株式会社ティーンスピリットを創業した。
ベストティーチャーでは、教育事業に携わっていた宮地だが、ティーンスピリットではエンターテイメントをドメインとした事業にチャレンジしている。
これからの時代はテクノロジーで労働が減っていき、余暇をどう過ごすかの重要性が高まっていくと思っています。「IT×エンタメ」でそこに関わる事業をやっていきたい。
エンターテイメント事業を始めたと言うと、スタートアップ界隈の人たちからは「どんなWEBサービスを創るんですか?」と聞かれます。
将来的にWEBを使ったプラットフォームの構想はありますが、実は、今はコンテンツを創ることに力を入れています。
宮地が現在、ティーンスピリットで行っているのはダンスボーカルグループ等のプロデュース事業だ。
エンタメに携わるのであれば、まずはオリジナルのコンテンツを持つべきだし、何より自分自身が音楽づくりやプロデュースでどこまで上がっていけるか力を試してみたい。K-POPのような世界中を楽しませられる本物のダンスボーカルグループを世の中に見せたいと思っています。
宮地は今回の起業では、上場もベンチャーキャピタルからの資金調達も考えておらず、仲間内の資金だけでやるつもりだという。
大きく資金調達をして、会社を急成長させ、企業価値を上げてEXITする…それが近年のスタートアップの姿だが、
資本主義は間もなく疲弊します。企業価値経営から、好きなこと経営に時代が変わります。その先陣を切りたいです。
宮地は笑顔で語る。
そして、2019年…
「その時に一番やりたいことをやってきた」、宮地はこの10年をそう振り返る。
会計士から始まり、M&Aの仕事をしよう、IT業界に行こう、起業しよう、エンジェル投資をしよう、もう一度起業しよう、その時々にやりたいと思ったことをためらうことなくやってきたのが結果として良かったと思っています。常に新しいことをやっていたので飽きは来なかったし、変わっていく自分が楽しかったですね。
宮地の話を聞き、
「10年ですっかり会計士ではなくなりましたね」
そう投げかけてみた。
すると、彼はこう答えた。
監査法人を辞めたときに、会計士は捨てたつもりでいました。
起業したときは、元・会計士という肩書のおかげで信頼も得やすかった。でも、起業家として認められたかったので早く会計士を捨てたいと思っていました。
今は、最新の会計基準や監査手法など実務レベルの話はもうわかりません。そういった意味では会計士ではなくなってしまったと思います。
でも、事業や投資の経験を積んだことによって、P/Lを見ればその会社で何が起こっているのかが、会計の仕事をしていた頃よりもはるかに正確に予想できるようになりました。
僕は、数字を見てどのくらい経済的実態を予想できるが会計士の力量だと思っているんですね。
そう考えると、この10年、ずっと会計士から離れてきたはずなのに、離れるほど会計士になれたんです。
自分は会計士という肩書が欲しかったのではなく、会計士の本質的な姿をずっと追ってきた。最近になってそう気づきました。
宮地のプロデュースするダンスボーカルグループ「SPECIAL NIGHT」は間もなくデビューを迎える。
僕は、会計士としてのスタートも遅く、エリートでもなかったので、誰からも期待されていませんでした。でも、その分、守るものがなくて失敗を恐れずにチャレンジすることができました。
そういった意味では、今回も誰も僕に期待してないから良いかもしれないですね。
今ですか? 余裕あるでしょ、とかもう人生あがった、みたいに思われるかもしれませんが、新会社に全体重かけてますからね。自分ならまたやれるという自信と危機感の両方を感じていて、とてもピリピリしています。
エンタメとテクノロジーに精通した僕たちであれば5年で世界を穫れると本気で信じています。他方でエンターテイメントビジネスは振れ幅も大きいので、当てられないリスクもあります。
キャリアに関しても、たまたま今まではうまくいきましたけど、40代、50代になっても今と同じようにキャッシュを稼ぐ力が続くのか、確信はありませんし、むしろ不安なくらいです。
でも、やりますよ。
行動しないとキャリアは自分で思ったところには行かないですから。
宮地俊充の新たな10年が始まっている。