1990年代の後半から2000年代の前半にかけて、日本の不動産投資市場は勃興期にありました。
1996年に当時の橋本総理が「日本版ビッグバン」宣言を行い、我が国の金融市場をNYやロンドンに匹敵する国際金融市場とすべく、金融システム改革に全力で取り組むよう指示がありました。これを受けて、1998年にいわゆるSPC法(現在の資産流動化法)が施行され、2000年には投資対象を不動産にも広げる投信法の改正が行われ、SPCやリートを活用する集団投資スキームの市場整備が矢継ぎ早に行われました。
2001年9月10日にスタートした東証Jリート市場は波乱の中での船出となりました。その翌日にアメリカ同時多発テロが発生したからです。
その後、幾多の法令改正や各種制度の整備、リーマンショックやアベノミクスなどの好景気や不景気を経て、徐々に洗練され高度化してきた日本の不動産金融市場。
複数回に渡り、東京共同会計事務所・シニアアドバイザー(業務委託)であり、日本の不動産投資市場を黎明期より見続けた公認会計士・原田昌平(元・新日本有限責任監査法人常務理事)が、その歴史や金融手法の変遷を語ります。
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著者
原田 昌平/公認会計士
東京共同会計事務所 シニアアドバイザー
中央大学商学部卒業、1984年、監査法人太田哲三事務所(現 新日本有限責任監査法人)に入所。1993年よりEYロンドン事務所に出向。1999年、新日本有限責任監査法人パートナー就任。1999年、EY Global Financial Servicesに兼務出向。2012年、新日本有限責任監査法人常務理事に就任。この間、国土交通省の不動産投資市場確立フォーラム・不動産市場安定化ファンド検討委員会、鑑定評価制度見直し検討委員会、内閣府の不動産・インフラ投資市場活性化会議、企業会計基準委員会の投資不動産専門委員会・特別目的会社専門委員会、日本公認会計士協会の投資信託専門部会・SPE検討専門委員会、など多数の委員を歴任。
2017年7月より東京共同会計事務所のシニアアドバイザー(業務委託)に就任。
新会社の設立と証券化ビジネスへのチャレンジ
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1997年1月にEYと新日本監査法人が共同で設立したEYGFSという金融コンサル会社に出向したということを前回にお話ししました。金融危機を受けて、日本の金融機関のリスク管理の脆弱性が露わになり、JPモルガン(※法人種類略。以下同様。)やバンカース・トラストなどが導入していた欧米の先進的なリスク管理モデルのコンサルティングを主な目的として設立された法人です。社長をはじめ主要なマネジメントは米国人でしたが、私はストラクチャードファイナンスグループのリーダーとして、証券化ビジネスを立ち上げることをミッションとして与えられました。
1997年に始まった金融危機の余波を受けて、当時は金融機関の再編の最中でした。多くの金融機関の間で合従連衡が起こり、現在の3メガバンクに繋がる経営統合のアナウンスがされたのもこの時期でした。その後の準備期間を経て、2000年9月には日本興業銀行と富士銀行、第一勧業銀行の統合によりみずほホールディングスが誕生。2001年4月には、住友銀行と三井銀行が合併し三井住友銀行、三和銀行と東海銀行、東洋信託銀行の経営統合によりUFJホールディングスが相次いで誕生しています。
こうした金融機関の再編の影響により、多くの優秀な人材がコンサルティングや不動産投資の市場に流れ込んできました。EYGFSでも新聞広告を出すだけで毎回100名近い応募があり、設立したばかりの会社ではありましたが、優秀な人材を集めることが可能となりました。前にもお話ししたことですが、NASAの人材がリストラにより金融機関に移り、宇宙工学と金融工学の融合によりデリバティブスが開発されたように、金融機関の人材が不動産投資市場に流入したことにより「不動産と金融の融合」が進み、ファンドを利用した不動産投資市場が急速に発展する原動力になったのだと思います。
証券化ビジネスに夢中になった40代
私はといえば、ストラクチャードファイナンス(証券化)ビジネスの立ち上げにもがいていました。大したノウハウも無く、クライアントゼロからのスタートではありましたが、時代は正に証券化という新しい市場を求めていました。金融機関も一般企業も不良債権や不要な資産を早く処分し、その資金で負債を削減することにより財務内容を改善したいという強いニーズがありました。資産流動化法などのインフラが整備されたタイミングでチームを立ち上げることが出来たのもラッキーでした。金融機関各社はこぞって証券化を担当する部署を立ち上げていましたので、これらをターゲットに営業を行いました。この時期、SPCの連結や不動産の流動化といった証券化に関わる会計基準の整備も行われ、そういった会計基準の検討委員会の委員になったことも営業的にはプラスであったかもしれません。
初受注-黎明期だったコンサルティング業界
立ち上げの当初はいろいろなことがありました。某メガ系の証券会社から売掛債権の証券化に関わるデューデリを初めて受注しました。受注第1号です。しかし、米国人の社長が我々が経験不足であることを見抜き(そのとおりでしたが)、私を会議室に呼び出し「お前らには任せられない!」と証券化データをよこせと真っ赤な顔で怒鳴りつけてきます。私も意地を張って「いやだ!」と押し返す。そんな押し問答を30分ほど続け子供のケンカのようでしたが、最後は所長が折れてくれました。そんなことがありましたので我々も必死に取り組み、何とか1号案件を無事終了することが出来ました。
某財閥系銀行から、やはり売掛債権の証券化のストラクチャリングを受注した時には、報酬の代わりにSPCの監査を50万円でやってくれと言われて困ったものです。50万円では報酬が低すぎて監査は出来ませんし、そもそも、監査法人系のコンサル会社とはいえコンサルサービスを生業にしている会社なので、サービスの対価をもらえないと売上に計上できません。背景としては、当時の日本では「サービス=無料」といった考えがまだ残っていたということがあるかと思います。有形の自動車や電化製品には価値を見出しますが、無形のサービスには価値を認めないというのが当時の日本人の感覚でした。当時は大手のコンサルファームが立ち上がってきた時代でしたが、各社とも苦労されたのではないでしょうか。
そんなこんなで泥縄的な対応ではありましたが、何とかクライアントの期待に応え、何とか我々のリスクもヘッジしながら売上を伸ばしていきました。マーケットがどんどん大きくなっていく中で、体制が整ってから参入しようなどとしていたら取り残されてしまいます。荒っぽいやり方でしたが、足りないもの整えながら成長するという方法は、現在のデジタル革命時代のシリコンバレーのスタートアップ企業に通じるものがあったと思います。そういう意味では、大企業が変革期での対応に遅れる理由がよく分かります。
証券化プロジェクトのストラクチャリングにおいては、オリジネーター、アレンジャー、弁護士、公認会計士、税理士がワンセットのメンバーでした。証券化に不可欠の「真正売買」や「倒産隔離」、「ペイスルー」の構築において、弁護士や公認会計士、税理士の意見が求められていたからです。急成長していたとはいえ、新しいマーケットでしたので、どのプロジェクトに参加しても顔ぶれはほとんど同じでした。皆が新しいマーケットを創っているという気概に満ちて業務に取り組んでおり、知恵を絞って新しい商品をどんどん誕生させていました。当初は売掛債権の証券化に始まり、住宅ローンや本社ビルの証券化(流動化)を多く担当しましたが、変わったものでは、スタジアムの看板等の広告収入の証券化やパチンコホールの事業収入の証券化等にも関わりました。とにかく、安定的なキャッシュフローがあれば何でも証券化の対象にしてしまうような時代でした。
新しいマーケットがどんどん大きくなり、それを自分達で創っているという感覚があったので、寝る間を惜しんで働きました。当時は既にインターネットを業務で使用していましたが、クライアントとのコミュニケーションは未だ電話が中心でした。ミーティングで出て戻ってくるとボイスメッセージが30件くらい入っており、それを聞いているうちにさらに10件増えるといった忙しさでした。そんな状況でしたがあまり疲れを感じなかったのが今でも不思議です。40代という働き盛りだったこともありますが、オーナーシップが高いと仕事も遊びのように楽しくなるということを身を以て体験した時代でした。今でも当時一緒に仕事をした金融機関や弁護士の方達に会うと、「あの頃は楽しかったね~。」という話になります。
次回に続く
本連載は、東京共同会計事務所様の採用・求人WEBサイトからの転載記事です。東京共同会計事務所では公認会計士の方を採用中ですので、金融キャリアにご興味をお持ちの公認会計士の方はぜひご参考ください。
記事引用元:証券化マーケットの拡大とビジネス起ち上げへのチャレンジ:不動産金融の勃興の中で【第5回】 | 東京共同会計事務所求人・採用サイト